どーも~! ゴースト オブ ツシマ を買ってから約2ヶ月経ってるんですが、いまだにクリアーしていないというにわか古参ゲーマーのNoriです(笑)

そんな訳で「Ghost of Tsushima」と言えば鎌倉時代の日本にモンゴル帝国が2度にわたって侵略をもくろみた「元寇(げんこう)」または「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」とも呼ばれる戦争を題材にしたゲームですよね。

どうやらゲームの主人公、境井仁(さかい じん)は架空の人物のようで実際に存在した侍がモデルになったのかは定かではありませんが、仁の叔父である志村殿のモデルになったであろう人物は対馬の地頭代 宗 助国(そう すけくに)でしょうか?!(残念ながら宗 助国は文永の役で戦死しました)

しかし考えてみると自分が学生時代に学校で教わり元寇について知っていた事と言えば「鎌倉時代に1274年文永の役(ぶんえいのえき)と1281年弘安の役(こうあんのえき)が起きてモンゴル帝国(元)がたくさんの船で日本に攻めてきました。博多に上陸した元軍は当時の日本にはなかった爆弾みたいな武器(てつはう)を使ってきたので迎え撃った侍はめっちゃヤバかったです。しかしラッキーなことに2回とも神風が吹いて元の船は沈没しちゃったので日本は勝利しました。めでたしめでたし。」以上でした。

ちなみにゴーストオブツシマは1274年の文永の役の対馬が舞台になっています。

文永の役と弘安の役は結果的にみれば日本が勝ったということで学校の授業では省略しちゃったのかも分かりませんけど、一歩間違えば日本がモンゴル帝国の植民地または属国になっていたかもしれないという大事件だったはずです。

しかしながら元寇の詳細については全くと言っていいほどしか知らないんじゃ日本人として余りにも恥ずかしいですよね。

そんな訳で「Ghost of Tsushima」をプレイしてみたのをきっかけに元寇について調べてみたんですけど教科書には載っていなかった思わぬ事実や元軍から日本を守るために命をかけて戦ったお侍様の活躍ぶりなどを知ることが出来ました。

今までは「元寇」と言えば「神風」のおかげで勝利したというイメージが強かったんですけど、実際にはそんな簡単にかたずけられるような単純なお話しではなかったようです。

という事で今回はゴースト オブ ツシマをもっと楽しく遊ぶためにも(まだまだ飽きていませんよ!)元寇についてざっくり簡潔に分かりやすくまとめようと思います。

❢この記事の内容❢
✅なぜ元寇は起こったのか?
 ↳元って何?まずは敵を知ろう!
 ↳クビライ・ハーンが日本を狙った理由とは?
 ↳クビライ・ハーンから日本に送られた国書・蒙古国牒状
✅1274年 文永の役
✅1281年 弘安の役
✅まとめ

なぜ元寇は起こったのか?

元って何?まずは敵を知ろう!

まず元寇で攻めてきた元とはどんな国だったのかと言うと「初代皇帝 チンギス・カン 1162 – 1227」から始まったモンゴル帝国ですが、「第5代皇帝 クビライ・ハーン 1215 – 1294」の時代には国号を「大元」とし東ヨーロッパから中国まで支配下におさめてしまいました。

下の地図の赤い部分がモンゴル帝国(元)の支配下となっており1279年つまり1281年の弘安の役がおこった2年前には南宋を制圧し中国全土を支配下に置き最終進化形態のフルバースト状態になっているのがお分かりいただけると思います。

出典:Wikipedia モンゴル帝国の変遷

こんな歴史上最大の巨大帝国を築き上げた第五代 皇帝 クビライ・ハーンの勢力がが元寇で日本に攻めてきた敵の正体だったんですね。

いや~、モンゴル帝国恐るべし!よくもまあ短期間の間にこんなにも広大な土地を支配下におさめたもんです!これがかつて日本に襲ってきた敵だったと思うと恐ろしいばかりですね。

また実際に日本に攻めてきた兵士は全てモンゴル人だったわけではなく文永の役では高麗(朝鮮)、弘安の役では高麗(朝鮮)と南宋(中国)から動員された軍で構成されていました。

クビライ・ハーンが日本を狙った理由とは?

出典:Wikipedia クビライ・ハーン

大元帝国のクビライ・ハーンが日本を狙った理由についてですが当時の資料が少ない事もあり諸説紛々ありまして正確なことはわかっていないようですが、有力な説を抜粋すると以下のような理由で元が攻めてきたのではないかと言われています。(どれを信じるか信じないかはあなた次第です!

  • 何度か日本に使者(高麗人)を送り国書を届けて属国になるよう促したが日本に無視されたので怒った。
  • 単純に勢力拡大の一環として日本も手に入れたかった。
  • 当時クビライが支配しようと狙っていた中国南部の南宋を攻めるために日本の船と軍事力がほしかった。また火薬の原料となる硫黄が日本から南宋に渡ることを防ぎたかった。
  • クビライに仕えていたマルコ・ポーロが日本(ジパング)について黄金の国だと伝えていたもんだから欲が出た。(ちなみにマルコポーロは日本に来たことがない
  • 当時元の属国だった高麗(朝鮮半島)第25代国王の忠烈王が元に恩を売るために日本攻めを提案した。

クビライ・ハーンから日本に送られた国書・蒙古国牒状

クビライは実際に軍を送って日本を攻める前に戦わずして属国とするために国書・蒙古国牒状(もうここくちょうじょう)を高麗の使者をつかって送り付けています。

元から国書を届けるよう命じられた高麗の使者は何度か(5回とか6回とか?)にわたって日本に国書を届けたり届けなかったりしたようですが、以下に1268年と1269年に日本に届けられた蒙古国牒状の内容をざっくり翻訳します。

原文はWikiより確認してください。
https://ja.wikisource.org/wiki/蒙古国牒状

1268年(現代和訳:Noriオリジナルバージョン)

ヤッホ~小国日本の国王!

ぽっくんは天に選ばれた皇帝クビライだよ~

ぽっくんは天命を受けちゃったもんで中国とか全部支配しちゃってるんだけど、ビビった小国はみんなぽっくんに挨拶しに来てるんだよね?!知らなかったかな?

日本のお隣さんの高麗(朝鮮)さんもぽっくんが皇帝になってからちゃんと挨拶しに来てしっぽフリフリしてるんだけど何で日本は挨拶しに来ないのかな?

ぽっくんは平和主義者だからみんなと仲良くやりたいんだよね~

出来れば兵隊とか送るのダルイしやりたくないんだよな~

そこんとこヨロシクね!

1269年(現代和訳:Noriオリジナルバージョン)

ゴルァ!ぽっくん本気で怒ったからね!

これから一万の大艦隊で日本攻めちゃうけどそれでいいんだよね?

後悔しても知らないんだからね?!

これらクビライからの国書は幕府から朝廷に届けられて一度は返事を書いたものの結局その返事を送ることは無く日本は無視を決め込んだのです。

大元帝国のクビライから見たら東の果ての小国にわざわざ何度も使者を送って国書を届けているのに従わないどころか返事もしないでのさばっている日本にさぞかし憤慨したことでしょうね?!

ここからは余談ですが国書を受取った日本の朝廷も一旦返事を書いていました。

以下は亀山天皇(朝廷)から元にあてた手紙ですが、結局送られることはなかった幻の返答です。

そもそも貴国とわが国ではかつて人物の往来はなかった。

本朝は貴国に対してなんら好悪の感情はありません。

ところが経緯を顧みずに我が国に凶器をもちいようとしている。

なぜ自らを「帝徳仁義」などと称しながら民衆を殺傷する源を開こうとするのか。

およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本皇帝の皇位継承に至るまで聖明の及ばぬところなく、歴代天皇の鎮護はあきらかで四方の異民族が治まり乱れがない。

ゆえに昔から国土を神国と号すのである。

知をもって争うべきでなく力をもって争うべきでない。

唯一無二の存在である、よく考えよ。

『鎌倉遺文』

至極真っ当で良い内容の手紙だと思いますが、幕府から「無礼者は相手にせず無視しましょう!」との助言もあり結局お蔵入りになったようです。

1274年 文永の役

出典:wikipedia 蒙古軍に突撃する竹崎季長

1274年(文永11年)10月3日、元軍はおよそ900隻もの軍船を率いて高麗の合浦(がっぽ)を出港しました。 その兵力はおよそ3万。 その内訳は、モンゴル人がおよそ2万人、高麗人がおよそ1万人ほどだったと言われております。

wikipediaより

1274年10月3日ついに元が日本に向けて進軍を開始しました。

以下は文永の役での出来事を時系列にそって簡単にまとめました。

1274年 文永の役 まとめ

  • 10月3日 元軍高麗(朝鮮半島)の馬山合浦から出発
  • 10月5日 元軍対馬に到着
    1000の元軍が上陸し迎え撃ったのは対馬の地頭代 宗 助国(そう すけくに)率いる80の武士。

    対馬の武士も善戦するが多勢に無勢、数名の博多へ向かった者以外はあえなく全滅。

    対馬の島民は老人、子供、男は手当たり次第に殺され、女は手のひらに穴をあけられて船につるされ、また家畜や食料は全て奪われた。
  • 10月14日 元軍壱岐に到着
    迎え撃ったのは壱岐守護代の平 景隆(たいらのかげたか)率いる100前後の武士。
    圧倒的な大群の前にあえなく敗退し平景隆と一族は自害、そして対馬同様に殺戮と略奪が行われた。
  • 10月16、17日 元軍平戸島・鷹島・能古島を襲撃
    松浦党の肥前の御家人・佐志房(さし ふさし)らをはじめとする武士が応戦するも全滅し、惨状は壱岐や対馬と同等だったそう。
  • 10月19日 元軍 博多湾に集結
    対して日本側は対馬、壱岐から知らせを受け総大将・少弐景資(しょうに かげすけ)率いる九州の御家人らが大宰府で集結していた。

    兵力は5000騎、人数にして推定10,000~の兵が18日には迎撃態勢を整えていました。
  • 10月20日 元軍は博多港から上陸開始
    上陸場所については筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津などの説があります。

    赤坂の戦い:やる気満々だった肥後の御家人・菊池武房(きくち たけふさ)の軍勢が赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し敗走させた。さらに手柄をあげたがっていた竹崎季長(たけざき すえなが)が追撃をかけるも馬がぬかるみにハマって失敗。

    鳥飼潟の戦い:どうしても手柄が欲しい肥後の御家人・竹崎季長の部隊は元軍が進行していた鳥飼潟に奇襲をかけるも元軍の矢を受けて負傷する。そこに肥後の御家人・白石通泰率(しらいし みちやす)いる100余騎が到着し元軍に突撃し元軍は敗走。

    百道原と姪浜の戦い:赤坂の戦い、鳥飼潟の戦いで勢いに乗った日本軍はさらに百道原、姪浜と元軍に追撃をかけていった。これらの戦いでは豊後の御家人・日田永基(ひたながもと)が奮戦した。更にこの百道原では蒙古軍大将の劉復亨(りゅう ふくこう)を矢で射止めた。
  • 10月21日 元軍撤退
    神風はなかった?
    元寇について記した八幡愚童記(はちまんぐどうくん)によると21日の朝になって元軍の様子を見に行ってみると兵も船も見当たらずビックリだったそうです。
  • 11月27日 元軍は朝鮮半島の馬山合浦に帰還した

以上、文永の役での出来事を超簡単にまとめてみましたが、鎌倉武士が元軍に対して大敗を喫してしまった戦いは「対馬」「壱岐」平戸島」などあまりにも戦力差があった戦いのみで博多で元軍を迎え撃った御家人らはかなり善戦したのではないでしょうか?!

また文永の役に関しては神風が吹いたおかげで元の船が蹴散らされてあえなく日本が勝利したという教科書の教えはどうやら間違っています。

なぜなら八幡愚童記にも暴風雨があったなどという内容は何一つ記されていないし、せっかく博多に上陸して陣を構えた元軍が撤退するという理由以外で夜になったら船に戻るという行動はあり得ない事だったからです。

また博多港は水深が浅く大きな船では上陸できなかったので上陸するには小舟で何度も往復する必要があったようですが、それって大変な労力ですし格好の的になってしまいます。

そんなことから元軍が撤退した理由として一番有力な説は「元軍は博多に上陸するも予想のほか日本軍の反撃にあい苦戦したあげく百道原の戦いで少弐景資の放った矢により蒙古軍大将の劉復亨が負傷してしまったために撤退を余儀なくされた」といったことです。

何だか自分の知っていた元寇とは全く別物だったみたいでびっくりでした!

そしてこの文永の役がゴーストオブツシマの舞台になった出来事になりますが、対馬の地頭代 宗助国が境井仁の叔父 志村殿 だとして実際には博多へ向かった2名(小太郎・兵衛次郎)を除いて全員戦死しているのでストーリーは完全にフィクションと言うことになりますね。

1281年 弘安の役

出典:Wikipedia 撤退する元軍船の追撃

1281年、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった

Wikipedia 「元寇」より引用

文永の役では元(モンゴル)と高麗(朝鮮)連合軍が対馬をはじめとする各地で殺戮、破壊、略奪を繰り返し大きな被害を受けた鎌倉幕府でしたが1度は「倍返しだ!」とばかりに高麗に攻め入る計画を立てていたようですが、結局それは中止となりました。

しかし再度の襲撃に備えて博多湾の実に20㎞にも及ぶ範囲に高さ2mの壁(元寇防塁)を建設し防衛体制を整えていました。

対するクビライは1275年、1279年の二度にわたり使節団を日本に派遣して再び属国になるよう要求を試みる。→日本はいずれの使節団も斬首刑に処した。

1279年、南宋(中国南部)を滅ぼして中国全土も支配下におさめたクビライは晴れてフルパワーで日本侵略を計画し1281年2回目の襲撃に打って出た。

1281年 弘安の役 まとめ

  • 5月3日 東路軍(モンゴル、中国、朝鮮兵で構成)約4万 高麗(朝鮮半島)の馬山合浦から出航
  • 5月21日 東路軍 対馬に上陸
  • 5月26日 東路軍 壱岐に上陸

    その後博多湾へ向かうも元寇防塁と鎌倉武士に拒まれ上陸断念
  • 6月6日 東路軍 志賀島を占領し陣を構える
    その夜、鎌倉武士は東路軍の軍船に対して夜襲を仕掛ける
  • 6月8、9日 日本軍は志賀島の東路軍に対して総攻撃を仕掛ける
    志賀島の戦い:日本軍による猛攻に大敗を喫した東路軍は壱岐島へ退陣する
  • 6月15日 東路軍は江南軍と壱岐島にて合流する予定だったが期限になっても江南軍は現れなかった
    東路軍内で疫病が発生し3000人以上の犠牲者が出るは食料も底をつきそうだしと踏んだり蹴ったりで戦意喪失するも江南軍を待つことに
  • 6月中旬(18日あたり)江南軍(南宋兵)10万 慶元、定海から出航
    出航が遅れた理由は司令官が病気になったので交代したため(それにしても遅れすぎでしょう!やる気あるのか?!)
  • 6月下旬 江南軍 平戸島と鷹島に到着
  • 6月29日 日本軍は壱岐島の東路軍に対し総攻撃を開始
    壱岐島の戦い:松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏ら数万の鎌倉武士が活躍し7月2日には壱岐島に上陸し東路軍を撃破する。一方で敗れた東路軍は江南軍と合流するため平戸島へ敗走した。
  • 7月中旬~ 東路軍・江南軍は新たに平戸島から鷹島で合流し大宰府を襲撃する計画をすすめる
  • 7月27日 鷹島に停泊していた元軍艦船隊に対して日本軍の軍船が戦闘を仕掛ける
    鷹島沖海戦:日中に日本軍が攻め込み戦闘は翌日の夜明けまで続いた

    同時期に鎌倉幕府(六波羅探題)は6万騎の大軍を九州の戦場に向け進軍させていた(結局は九州に到着する前に日本軍が勝利したため活躍の機会はなかった)
  • 7月30日夜間 台風が吹き荒れて元軍の軍船に被害をあたえる
    神風により元軍は全滅したのかと思いきや実際には江南軍の船はかなりの損害を被ったようだが東路軍の方は大した被害はなかったとの事
  • 8月20日 元軍は軍議にて撤退を決定するも対する日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を仕掛ける
    御厨海上合戦:文永の役でも活躍した御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に対して総攻撃を仕掛けて撤退する元軍軍船を追撃し一掃する
  • 8月22日 日本軍は鷹島への総攻撃を開始
    鷹島掃蕩戦:最後に日本軍は鷹島に取り残されていた10万の兵と残った船の壊滅を目指して総攻撃を仕掛けた。この戦いでは陸と海上で激しい戦闘が繰り広げられたすえ鎌倉武士は元軍の壊滅に成功し、2~3万の兵を捕虜として捕らえた。(捕虜はのちに旧南宋人以外は全員処刑された)

弘安の役の出来事をまとめてみて気が付いたことは台風こと神風が吹き荒れて元軍の船はかなり損害を負ったものの全滅してしまったわけではなく10万以上の兵力が残っていたということです。

そして台風が過ぎ去った後も鎌倉武士は勇敢に元軍に立ち向かい全てを排除してしまいました。

これって確かに台風が味方してくれたという部分もあるとは思いますが、鎌倉武士の活躍なくして勝利はあり得なかったのではと思いました。

また弘安の役で元軍は長期戦を見込んで上陸してからの食料確保のために農具なども用意して準備万端だったようですが鎌倉武士は離島以外には全く上陸を許さず、鷹島沖海戦では5千隻以上にのぼる敵船にも臆することなく立ち向かっていった果敢な攻めがこの戦の大きな勝因だったのではないでしょうか。

まとめ

今回は「Ghost of Tsushimaの真実! 蒙古襲来とは?元寇とは何だったの?!まとめ」という事でお届けいたしました。

最初にGhost of Tsushimaをプレイした時には蒙古に立ち向かう境井仁をはじめとする日本の侍のカッコよさにゲームだとは言え感動を覚えましたが、実際に元寇で戦った鎌倉武士もめちゃくちゃカッコよかったんだろうなと思うと胸が熱くなります。

僕なりに実際に起こった元寇をまとめると日本は決して神風によってラッキーパンチで勝ったわけではなく、多くの鎌倉武士が勇敢に戦ってくれたおかげで勝利し今日の日本が存在するのだと思います。

日本と民を守るためなら命も惜しまなかった鎌倉武士は凄いです勇敢すぎます!(褒美が目当てだったという噂もありますが?!)

もしもこの時代、元の支配下に置かれてしまって縁起でもありませんが朝廷がつぶされていたらと考えると確実に今の日本は存在しませんしどうなっていたのかと思うと恐ろしい限りです。

まさかゲームによって日本の歴史には今回の鎌倉武士のように命を捨ててでも国を守ろうとしてくれた英雄がいたんだなとあらたに知ることが出来るとは思ってもみませんでした。

そんなわけでGhost of Tsushimaには感謝の気持ちでいっぱいです。(まだクリアーしていませんが・笑)

そしていつの日か必ずGhost of Tsushimaの聖地巡礼をふくめて元寇で亡くなった多くの方々に対して手を合わせに博多や対馬に行きたいなと思った次第でございます。